yoshihide nakajima
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2010.04.02
category ; diary

新潟であったことは、別の機会に書くとして、東京に戻ってからの事。

山盛りの仕事を目の前に唖然としながらも、こりゃ月の半ばまではただやるしかねーなと思っていた。だけど、プライベートで、もうすでに用意は終えていて、忙しいからと言って、先のばしていただけの事から片づける事にした。これは、それぞれの中にある時間を進める為に必要な事だった。これは事実からすると、正確な言葉じゃないらしいけど、先日友人がそう訳して外人に伝わっていたので、僕はこれを「happy split」と呼ぶことにする。そしてエイプリルフールに、僕たちはそれを真実として行ったのだった。正直、別に真実が何かなんてどうでもいいとも思っている。嘘の対義語として真実を使ったまで。ともかく嘘じゃなくそれをやった。

新潟にいる間に、詩が生きて歩いてらっしゃるようだと僕が思う方、尊敬する詩人の方に「人に人は許せません!」と、それまで穏やかだった口調から、少しきつい口調に変えて、言葉を投げられた。「言われた、話された」という表現でも、いいのだけれども、なんとなくそれは、僕が受け止められるスピードでもって、優しく強く投げられたように感じた。当たり前の事「人は皆、等価であるから」それがその方が、僕を戒めた理由だった。そりゃそうだと思う。だけど、それ以外の言い方も見つかってはいない。ただ、認めるでもいいんだけど、もっと身体的な飲み込む、そんな感覚なんだけど、何て言えばいいんだろうと思ったりした。でも今は、もはや誰かに伝える為の言葉にする必要はないとも思っている。(それでは言葉と呼べないかもしれない、でもいいや、それを言葉と言いながら進める)なぜなら、僕が起こった事態を全部飲み込んだ時から、既にそれが交換のできない一つの僕だけの言葉として僕自身の中にある事を僕が知っているからだ。

そして僕はここから、まず僕の為に生きるという事をする。

つい先日「目が溶ける程泣いた」と話す女性と話した。そして彼女は今その後を生きている。歪みも闇もかかえたまま、笑ったりもしながら生きている。僕はなんだか得体の知れない、そういう変化そのものを健康に生きていくような力を、およそ無条件に肯定したいと思っている。以前、展示でも書いたような事。僕は運動だけを信じる。生命が波打ち際で始まったのなら、どんな変化など恐れることはない。運動さえ続けば、集合も離散も等価にあり得る事だと思うからだ。

今日は、久しぶりにパイプに火をいれながら、この日記みたいなものを書いたという事には何の意味もない。

2010.04.02
category ; diary

新潟絵屋開催した自身の平面作品の展示と、同時に自身が企画し新潟絵屋主催で併催した砂丘舘でのコンサートに、ご来場いただきました皆様、お世話になりました方々、本当にありがとうございました。会期中は雪が降ったり、雨が降ったりと天候が安定しませんでしたが、30日は春の日射しが暖かい日になって良かったです。終わりよければ全てよし。そしてたくさんの方に絵を手にとって頂けた事(自分で予想していたより)と、素晴らしい内容でのコンサートが開催出来た事、自身とても嬉しく思います。皆様、本当にありがとうございました。

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