今日まで、そうでなかったのは全て僕のせいだった(と思う)のだが、今日は、世界は広く、空は高くなれる(はるかに遠のいていけと思う)場所について、それがありえると本当に願い、信じるということができたように思う。それについてちゃんと話せたかな、、ということについては、満点は永遠にあり得ないので、この点のみ自分を許す。今日は良かった。
来週あたりに、場所を探しに関西に行く事にした。
久しぶりに、色んな場所で寝てみたいと思い、それでなんとなく寝袋が欲しいと言ったら、寝袋を探したことがない家人は、寝袋を探してみたいと言う。変な奴だなと思う。どんなのが欲しい?と聞かれたので、機能的で省スペースのものと答える。しばらく、うーんとうなっていたが、何を考えているんやろう。この人は。
なんとなくリセット、再起動の気分。仕事をして一日が終わるな、と思っていたが、夜中すぎてから、カリグラフィーペンとインクをひきずりだして、にじみどめをしてやって字を書いてみる。キャピタル・ロマーナ。そりゃ、てんでダメである。やったことがない書体だったものだからというのは言い訳で、厳格過ぎて敬遠をしていたというのも、教本なしにやるとなると、元々大きな物なのだから上部行と、下部行の文字の大きさはパースを考慮されて変えられてるし、レタースペースも繊細というのも同じ。そりゃ、分析的にやらないと前進なんてとんでもない。なので、日課としてやることにした。(その後継続を断念)
その上、さらにポートフォリオを作ろうと思い中身はほっといて、まず製本をした。ドドメ色の泥の固まりのようになったが、家人に聞くときれいというので、それを鵜呑みにした。これを天金にしてから、中身は出来た形の中で考えるという本末転倒。本紙を製本している途中で、麻糸のかがりの順序が分からなくなり、「なんとなく団鬼六」状態にもなった。
東京の会場で、買って頂いた作品のうち、取り置きのものを搬出してしまう不手際があった。明日の朝、それをお送りしようと思いたち、段ボールからそれを探し出し出した。元々、包装上手ではないが、お送りする事が遅れたこともあって、できるだけ丁寧にお届けしたいと思った。紙箱を作り、包装材も作った。すると、割と上手に出来たような気がしたので、写真に撮った。しかし、写真を見ていると、どこからどこまでが作品か分かりにくい、不親切な包装だとも思った。
東京茅場町での展示へご来場頂きました皆様、本当にありがとうございました。
また、展示を企画頂いたiTohenの鰺坂氏、セッションに出演頂いたevala氏、会場の森岡書店の森岡氏、毎日迷惑をかけた家人に、この場をかりてお礼申し上げます。
過去に戻る。終えてからなかなか言葉にできなかったので、書くのが遅くなりました。まだ練れていませんが。さて、展示が始まる。ここいらあたりでは、どの場所でも重力はおよそ平等であり、ここでは壁面からパネルが落下するも、壁面を借りてしか成立しない展示に、真にあるべき自律した姿はないように思えたので、落ちたものは、それはそれで、落ちたようにして床にならべ対応した。なので、展示の感じは、ずいぶん始まりと終わりではずいぶん違ったものになっていた。
元々特徴的な情報の多さのある空間だった。それゆえ、今回は1)「空間の特徴に身を委ねる」か、2)「空間を覆い隠そうとする、もしくは飲み込もうとする」か、といった作品と空間との関係性についての選択に迷った。毎回これには迷う。
選択の基準となるのは、僕自身が、空間を表現として見せる方法一般についての考え。具体的には、空間の持つ様々な特徴の中で、各特徴に共通して見られる要素、もしくは各特徴の発生に共通する原因を把握して(この把握力こそが問題なのだが)、それに対して判断をし、操作を加えて、結果、空間の特徴における最も長い(拡大された、代表する)断面を見せることに有効性があると思っていることだ。今回も、選択において、1)2)のいずれに、この有効性を見いだせるかが選択の基準となった。
今回については、空間に全体化された特徴である「ある特徴的な古さ」を、どう判断し、操作するかを考えた。そこで僕は、2)の「空間を覆い隠そうとする、もしくは飲み込もうとする」を選び、壁が隠れる程度の多くの作品をぶちこみ、この空間が持つ「ある特徴的な古さ」とせめぎあうこと、つまり空間と作品がせめぎあうようなアプローチにしたいと考えた。そして、そのためには「ある特徴的な古さ」が霞む程度、物量をぶちこむ必要があると思った。1)の「空間の特徴に身を委ねる」という関係性を選ぶと、何となく、空間が受け入れるだけの余白にものを置き並べると、ただただ「良い調律ね」という程度、あるいは「雰囲気を乱さない」程度で、空間に作品が包摂されるだけになってしまうことが怖かった。特に見切りのある平面を生前と陳列した程度では、それ以外の認識を得る事が、とても僕にはできそうにないと思った。別に空間を作品に従属させたい訳ではない、ただせめぎあいたいだけなのだ。
僕が何を作っているかということを除外して考えれば、この空間に対しては、その特徴に対してシンプルな操作点を持つインスタレーションを行うのが、空間を表現として見せる最も有効な方法だろうと思ったが、これはこれで本末転倒だし、まずもって別に空間の為に制作をやっているわけではないので却下。あくまで僕は僕の為に作る事からしか始まっていない。
ぶちこみ覆い隠すことを選択した僕は、小さな平面物の集合でそれを実現しようとした。そこで時間が許す限りの数量を作った。結果約80点を制作し、並べた。
結局は「壁が絵になってしまった」と感じた。こうして壁に対して、僕は完全に敗北したのである。数量は満たず、サイズが小さく、見切れのある平面だと難しかったというのは言い訳である。これらの平面が期待したような対象物となる為には、他にも様々な理由の不足があった。それを見て、書いた時間を思い返しては、本当にがっくりとした気分になった。僕は、費やした時間もろとも、こんちくしょうの壁に負けたのだ。
平面を展示するにあたって、空間との関係に神経質な理由は、「今の年齢で僕が」、「今のご時世に平面を」、「今さらやりはじめた」にあたって、それを美しくに飾る為の被服としての空間を、必要としていないのだろうと思う。できれば、僕の制作物は丸裸であり、それを褒められたり、貶されたりして、怒ったり、泣いたり、恥じらえばよろしいと思う。物に先だって雰囲気で見せたいなどという嫌らしい心は、できるだけ遠ざけたい。なぜなら、僕は書いている時、まず「目」に見せたいと思っていたからだ。僕がうけた教育が建築だったというのも説明の補足程度にはなるかもしれない。
意図せず行われいて、結果思った事もある。最終日のセッションの為、信号線や電源ケーブルなどのひきまわしをやっていて、振り返って見た意図のないそれら。本来はこの空間に不要であるそれらが、この空間の調律に傷をいれ、壁が遠のいていくように思った。それを感じ空間を幽霊のようだと思った。
セッションは40分程度で行った。直前機材のトラブルもあったが、T君から知恵を借り無事解決。発音については、振動アクチュエータを木製パネルに圧着したもの2台、ギターアンプ2台、SRスピーカ2台を用い、それぞれ対をなすように空間に配置した。evala氏の演奏は素晴らしく、特にタイム感が個性的でとても好きだった。僕は、ギターの音とそれで別音源をトリガーして混ぜて出したりしていた。記録を聞くと、いくつかの瞬間でそれぞれの音が混ざり合って、きれいだと思う箇所があった。古い建物であるから、スラブ、壁厚が薄く、そのためかあまりビャンビャン言わないシルキーな伸びのアンビエンスがあった。だが低域はすぐに飽和するので、低域の成分の多いドローンなどは、音量の扱いが難しいと感じた。まあ、飽和したら飽和したで、判別しにくいが良く聞けば変化しているという変化の在り方もあるので、それはそれで面白いとも思う。ともかく、出演頂き素晴らしい演奏をして下さったevala氏に感謝したい。
終了後飲み。翌日午前搬出、遅刻。後日お礼状送付。展示、終わる。しばらくは気が立っていたが、それもおさまる。そうしながら、仕事と自分のことの配分を考えながらの生活に戻る。